グリーフケアの風景

Landscape

グリーフの渦中より

「死にたい」をやり過ごす。

「死にたい」をやり過ごす。

こんにちは。新人グリーフ専門士、寿月です。
これを書いている部屋の窓からは名前のわからない木が見えるのですが、外は風がやや強いようで枝葉が踊るように揺れています。だいたいいつもここで作業しているので、この景色は見慣れていますが、同じ木が同じように揺れる様子を見ていても、その時の自分の状態によって感じとるものが随分違うと気づきました。
ちょっと言葉にするのは難しいのだけれど、揺れる(揺らぎ)ことによって風(試練)をやり過ごす、揺れることに意味がある、みたいなことを今日は思いました。いずれにせよその柔軟性は見習いたいところです。

それでは今日も、必要な人に届きますようにと願いを込めつつ、書き進めたいと思います。

「死にたい」が浮かぶ

夫との死別直後にどんな状態であったかは他記事でも触れましたが、それから少しずつ時間が経過していく中での変化、そして表面には見えづらい部分をもう少しお話していきます。

愛おしい、会いたいなど夫に対する気持ちや、悲しい辛いなど死別後に沸き起こる感情、孤独感や閉塞感、焦りや苛立ち、不安や恐怖感など。日本グリーフ専門士協会ではこれらの感情を総じて「哀しみ」と表します。私は当然感じているはずのその部分を見ないようにし、蓋をして生活を続けていたわけですが、同時にそれ以外の感情も鈍化(にぶくなる、にぶくする)していました。

大笑いして観ていたはずのテレビ番組がちっとも面白くない。というか、面白いってなんだっけ? という感覚です。笑う気満々で観るんですけどね。観る意味を失ってテレビを消す。静まり返った部屋に慌てて、またスイッチを入れる。出演者が笑っている姿を眺めているだけで、感情は全く動かない。
青空の下を歩く清々しさ、湯船につかった瞬間の思わず大きく息を吐き出してしまうあの解放感、食べ物に対し美味しいも不味いもなかったですし、心地が良いと感じていたはずのことをしても、心地良く感じることもなく。後悔も罪悪感もわかないかわりに、喜びも楽しさも興奮も感じられなくなっていたのです。
私は、表面上とても落ち着いて見えたでしょう。ずっと気丈に振舞ってらっしゃるからと声をかけてもらったこともありますが、無理をして振舞っている自覚もなかったように思います。
そして私自身、このくらいの感じで時間が経つのを待っていればなんとかやっていけるかもしれない、と思うこともありました。「哀しみ」は噴煙のように前触れなく、道端だろうとお店の中だろうと吹き出してこようとしますが、熱に焼かれないように煙に巻かれないようにしながら逃げていれば、なんとかなるのではないかと。
もちろん全く動けなくなるような日もあって、心を押し殺している分、身体に様々な反応が出てもいたのですが、それを不安に思う気持ちすらなかったです。

一時期より安定して過ごしているかのようなこの頃から、ふと浮かんでくる言葉があります。

「死にたい」

本当に死にたいわけではないのです。痛いのは嫌だし怖いし、これからも生きていくと漠然と信じてはいて、意識的に死にたいなんて全く思っていない。もっと言えば死にたくない。私は様々な死別経験から死に対する恐怖心が強くなっていて、死んだら愛する夫や両親のそばに行けるという感覚も薄く、むしろ彼らの悲しむ顔が浮かぶようで、それだけはなんとしても食い止めなければならないと考えていました。それなのにどうしてこんな言葉が浮かんでくるのか、意味が分かりませんでした。
手続きに向かう電車の中で、ごみを出しにでた道端で、トイレに入ろうとしているその瞬間、ふと顔をあげ窓の外を眺めている時、とにかくあらゆる場面で前置きなく浮かんでくるのです。その言葉を頭に浮かべながらも、近所の人に会えばちゃんと挨拶をし、立ち話になれば笑顔も浮かべられている。私が「死にたい」と思っている(実際は思っているわけではないのですが)ことに誰も気づかないんだなあと、なんとなく冷めた目で、自分を含めた全体を観察しているような感覚でした。

「死」はとても強い言葉です。その言葉が浮かんでくるたびに、そちらに一歩一歩近づいていっているような気もしました。ほんの小さなきっかけがあれば、もしくはちょっとした後押しのようなものがあれば、自分が簡単にそういう行動をとってしまうのではないか。死にたいと思っているわけではないのに死ねてしまいそうと言いますか、危うさがつきまとっているのです。たとえば包丁を使っている時、ふとそれを別に使う自分を思い浮かべたり、駅のホームで、吸い込まれるような感覚を意識したりしてしまう。行動には起こさないけれど、絶対に起こさないけれども、ふと境界線が薄らぐような瞬間がなくはなかったのです。
もしかしたら、そういう行動を絶対にとならいと決意しているということは、そういう行動が頭にあることの裏返しなのかもしれません。
かといって常に「死」を意識しているわけではないのです。実際私は「死にたい」を浮かべていた同時期に、グリーフケアをやる人になるぞ!と息まいていたわけなので、「死」にとらわれてはいなかったと思います。
やばいなぁとぼんやり思いながらも強く抗う気力はなくて、なんとなく流れに身を任せてしまっていたというところでしょうか。

このように漠然と死を考えてしまうことを『希死念慮(きしねんりょ)』と言います。大切な人や身近な人を亡くした後には、どんなきっかけにせよそのような想いが沸き起こってきても不思議ではありません。あの子のそばに行きたい、生きている意味がわからなくなった、一人を強く意識してしまうなど具体的な理由があって浮かべる人もあるだろうし、私のようにただ漠然と、自分でも戸惑うくらいな感覚で「死にたい」と浮かべる人もいるかもしれない。

学びを深める中で、あの頃の自分は「哀しみ」に蓋をし続けていたために、極端な言葉に置き換えて心が助けを求めていたのかもしれない、などといろいろ解釈できるようになりましたが、当時は知識もなければ、そんなことを深く考える気力がまずなかった。こんな複雑な状態を聴いてくれる人も周りにおらず、どころか誰とも話さない日が何日も続いていくのです。いろいろ鈍化していて気づかなかったけれど、自分が思っているよりも危うい状態だったかもしれません。あるいは逆に、鈍化していたからこそ、なんとかやり過ごすことができたのかもしれないとも思います。

この「死にたい」という言葉、今はもう全く浮かばないかといえば、正直そうではありません。あの頃のようにのべつまくなし浮かぶわけではないですが、今でもほんの時々、ぽこっと浮かびます。あの頃は浮かぶと、それだけで気持ちが落ちるような感覚もあったし、そんな自分に不安もあった。でも今は、哀しみを上手く吐き出せていないサインのようなものとして意識できるようになりました。

「哀しみ」はグリーフの根底にある感情で、死別後に起こりうるあらゆる状態(混乱、否認、怒り、抑うつ、諦め、転換、再生)の内側にずっとあるものです。それは、一度わかちあいの会に参加したからとか、グリーフケアを学び始めたから消えてなくなるというものではありません。今の私の中にも核のように存在していますし、不思議に思われるかもしれませんが、「哀しみ」と共生していくほうが心強いのではないかと思える日もあります。

たとえば私のように「死にたい」が浮かびながらそれを一人で抱えておられる方、まずは今日一日、あるいはこの一瞬を生きる(やり過ごす)手段として、オンラインによるわかちあいの会(グリーフサロン)を活用してみませんか。
また、当協会では地域に根差すグリーフ専門士が、それぞれの地域でのわかちあいの会(グリーフケアCafe)を行っています。お近くにあるようであれば、そちらも選択肢の一つとしてお考えいただけると幸いです。
お話しするのが難しければ、他の方のお話を聴くだけでも大丈夫です。グリーフケアを深く学んだ専門士が寄り添わせていただきますので、安心してご参加ください。

この項目の最後に、「死にたい」が浮かんできた時に、私が咄嗟にやっていたことをお伝えしようと思います。いつからやりはじめたのか覚えていませんし、それに意味があるのかもわかりません。ほとんど条件反射みたいなものなのですが、声に出すことで思考を塗り替えているような感覚が少し感じられるのです。

◎「死にたい」が浮かんできたら、「生きる」と声に出して言う。

今これを書きながら、そういえばこんなギャグ(漫才?)なかったかなあと。全く無意識なのですが、もしかしたら頭のどこかにあったのかな。

孤独の中でグリーフと向き合う

周りに他の人がいても孤独を感じることはあります。周りに人がいるからこそ、孤独が浮き彫りになるような感覚もあるかもしれません。喪失体験は、見える景色を一瞬で変えてしまうもののように思います。ほんの数日、数時間前に信じられていたものが、全くでたらめであったように思えたりもします。秩序がめちゃめちゃになり、見えていたはずの目の前の道が消え、通じていたはずの言葉が通じないような、ぽーんとどこか知らない国にに飛ばされ、置き去りにされてしまったような感覚があります。
その中で私たちは、それぞれのやり方で、もがかざるを得ないわけですが、たとえばその時に、ちょうどよく求めていた情報が手に入ったり、とことんまでこちらの嘆きや哀しみに寄り添ってくれる人がいるとは限りません。

一人では対処しきれないようなものを抱えた時の解決策として、誰かに話す、聞いてもらうということをあげる人は多いでしょう。しかしグリーフの場合は、抱えたもののあまりの重さ繊細さに、言葉に置き換えることが難しかったり、話すことを躊躇してしまう場合があります。また、話すことはできたけれど相手に上手く伝わっていないと感じたり、相手の何気ない一言に傷つくことがあるかもしれません。あなたを元気づけようとして言った言葉だとしても、それがわかっていながらも、わかり合えない感覚を色濃く持ってしまうこともあり得ます。
そうして孤独を深めた時、私たちは只々一人耐えるしかないのでしょうか。わかちあいの会などに参加し、同じような境遇の人たちと時を過ごすことも、もちろん一つの方法ではあります。ですがそれもハードルが高いと感じるならば、どうしたらいいのでしょう。

グリーフに向き合う方法は無限にある、と当協会の代表は話します。

散歩をする、旅に出る、本を読む、絵を描く、身体を思いきり動かす、映画を観る、音楽を聴くなどなど。神社に行くことで、死別した人とのつながりを感じられると話されている方もいました。こうしてあげていくと「なんだ、そんなこと」と思われるかもしれませんが、何が琴線に触れるかはその人次第なのだと思います。どうしたら自分の気持ちを大事にする時間が持てるか。そこに考えを寄せていくこと自体が、グリーフと向き合う第一歩かもしれません。
私のように、向き合うことそのものを拒んでいるような状態の時は、無理をして向き合う必要はないでしょう。ですが前記したような状態にありながらも、私も私になりに向き合おうとしていたことに、学んでから気づいたのです。

夫の身体に異変がではじめた頃から、私はその時々の状況と合わせ、頭を整理するために冷静でいるために、気持ちや感じることをノートに書いていました。今思えば予期悲嘆(夫の死を予期したことにより死別後のグリーフと同じような状態になること)もあったので、不安や誰にも打ち明けられない想いのはけ口として自然と書くことをしていたのです。夫が亡くなってしばらくはそれすらできない状態だったようですが(記憶すら曖昧)、見返してみたところ、およそ一月後からまた書き始めています。その日の書き出しにはこうあります。

「あああああああああああああああああ、もう、私、何が、〇〇(夫の名)、たすけて」

言葉が上手く出てこなくて、とにかく頭の中に浮かんだ音を文字にしていった当時のことを、今思い出しています。
こんな数行が続き、少しずつ文章らしいものになっていきます。酔っぱらって書いたのか、のたくったような字の日もあります。家に引きこもり、いろんなものを閉ざしながら、それでもこうして少しずつ少しずつ、向き合おうとしていた自分を褒めてあげたいです。

専門士を目指す講座内では、たとえば社会や家族、友人などとのつながりが絶たれたように感じている方に対して、あるいはグリーフとの向き合い方を問われた時などに、自然とつながってみることもご提案できるのではないかと学びます。木に触れる、大地に寝転ぶ、植物を育てるなどこちらもいろいろありそうですが、私は教わってすぐは正直ピンと来なくて、心の中でこう思っていました。

「それが人間的なつながりの代わりになるとは思えない」

でもその日の講座が終わり、自分のことを振り返ってみた時に、あることを思い出したのです。

死別からちょうど一か月後に迎えた結婚記念日。私は夫の遺影だけを持って、海に行きました。夫と愛犬と一緒によく散歩した海岸です。当時は車やバイクで行っていましたが、私は運転ができないので電車とバスを乗り継いで行きました。小雨が降る日で、海岸には人影がありません。波打ち際から少し離れた場所に、私は夫と並んで座りました。
寄せては引く波をぼんやりと眺め、その音を聴いていると、自然と涙が溢れてきました。夫に話しかけながらも、それまでと全く状況が変わってしまったことを認識し、でもここに来ることができたことが嬉しくて、だけど苦しくて。私は夫が亡くなってから、はじめて声をあげて泣きました。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を拭いもせず、ひたすらに大声をあげて泣いたのです。

海に向かって自分の気持ちを言葉にしたわけではありません。海が、ここでなら泣いて大丈夫、辛いよね、よく頑張っているよなどと言ってくれたわけでもありません。だけど私はあの時確実に、受け止められていると感じていたのではないでしょうか。だからこそ感情を出すことができた。私の気持ちも、もっと言えば夫の気持ちも、海が吸収してくれているような、そんな感覚があったようにも思います。
これらはあくまで私の体験ですが、読んでくださった方の小さなヒントにつながれば嬉しいです。
また、自分は何もできていないと感じておられる人の中にも、無意識かもしれないけれど、必死に向き合おうとして何かをしている自分がいるかもしれません。どうしようもない現状をどうしようもないままに、それでも息をして、必死にやり過ごしていることそれだけで、頑張っているのだと認めていけるといいなあと、私は自身に思っています。

日本グリーフ専門士協会では、グリーフ専門士一人一人が、あなたのつながりとなれるよう日々学びを深めています。また、グリーフの只中にいながらケアを学ぶこと。そこにも大きな意味があると私たちは考えます。

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編集後記

日本グリーフ専門士協会ではわかちあいの会」を無料開催しており、全国どこからでもご参加いただけます。お申込みいただきましたら、ZOOM(オンライン会議システム)の使い方等もメールで案内させていただきますのでご安心ください。

また、グリーフケアを学ぶ第一歩「グリーフケア・ペットロスケア入門講座」も無料で開講しています。支援者として活動したい方はもちろんのこと、グリーフの渦中におられる方にもご参加頂いております。今のご自分の状態を、少し客観視できるようになるかもしれません。私もここから学びをはじめました。