グリーフケアの風景

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グリーフの渦中より

日本グリーフ専門士協会を選んだ理由

日本グリーフ専門士協会を選んだ理由

こんにちは。新人グリーフ専門士、寿月(としつき)です。  皆様、いかがお過ごしでしょうか。
四季のある国に生きる私たちは、自然の変化に寄り添い、やがて過ぎ去ることを体感し続ける民族だといえるかもしれません。まっすぐ行かないと感じたり、立ち止まることもありますが、良くも悪くもいつか過ぎ去っていきます。時の流れに身を任せつつ、今日も書き進めていきたいと思います。

~ふたりごと~ 遺品整理をはじめた頃から

生きていた頃には必要とされていた物たちが、死後はその大半が役割を終え、不要になってしまう。もっと言えばゴミになってしまう。残された人は遅かれ早かれ、その物たちをどうしていくか決断しなければなりません。
大切な人のぬくもりや匂い、故人の手の跡を追うようになぞるその感触。一つ一つに浮かぶ思い出があり、また故人の想いが残っているように感じる物もあるでしょう。手放したくない。あるいは、手放してしまいたい。いずれにせよ踏ん切りを付けていく作業には、時間がかかるものです。

私は、自分が想像していたよりも早くからこの作業を始めました。引っ越しを視野に入れていたのもあるのですが、それだけでは語れないような焦りが強くて、「やらなきゃ、やらなきゃ」と自分を追い込んでいたところがあります。
夫は自営業で大きな機材をいくつも持っていましたし、なおかつ多趣味な人でしたから、その持ち物は膨大でした。私が見ても用途のわからないようなものがたくさんあったわけです。しかも彼の仕事部屋は、薬の影響で頭があまり動かなくなっている状態の彼自身が、頑張って機材を処分していこうとしていた名残りとして、足の踏み場もないような状態になっていたのです。

彼の死後しばらくはその部屋に一歩踏み込んだところで立ち尽くし、途方に暮れるばかりだった私ですが、とにかくその足元にあるものを拾い上げて、それがなんなのかを調べながらグループ分けしていくところからはじめました。衣類にいたっては、一枚ずつ撫でたり抱きしめたり匂いを嗅いだりし、胸が苦しくなってハンガーにかけ直すなんてことを延々とやりました。彼の靴に足を入れてみたり彼の椅子に座ったり。彼の箸とお茶碗でご飯を食べ、彼の好きだった本を読み、愛用していたクッションに顔を埋め、彼の布団で泣きながら眠る。そんなことをしているわけですから作業は遅々として進みません。
月並みな表現になりますが、彼の物を手放すのは胸が張り裂けそうに辛かった。片手にはゴミ袋を、もう片方には彼の物を握りしめ、そのまま脳みそがフリーズしたように動けなくなることもありました。
でも一方で、作業する時間は、夫と向き合う時間にもなっていたのです。それまでは夫に意識を向けること自体が苦しかったのですが、彼の物を処分していく作業をきっかけに、彼とのつながりが復活したような感覚がありました。夫がそばにいることをとても強く感じられたのです。

夫「ほら頑張れ。ゴミ袋にバサッと入れちゃえ」
私「え~、そんな簡単にいかないんだよ。だってこれよく着てたじゃん」
夫「でも、もういらんだろ」
私「まだ匂いが残ってる気がする。今日これ着て寝ようかな」
夫「ははは、そんなことやってたらきりないって」

私は(私と夫は)、こんなふうに会話をしながら作業を進めていきました。はたから見たら独り言ですが、私は『ふたりごと』と呼んでいます。質問したら応えてくれる。脚立に乗ったりのこぎりを使う作業をする時なんかは、私のことを心配する声が届く。喋り方の癖や言葉選び、そしてあの笑い声がすぐそばにある。見守ってくれている、応援してくれているという感触とでもいいましょうか。
全部、そんな気がするというだけですし、思い込みとか妄想とかどうとでも表現できそうです。でも実際どうなのかなんて、私にとってどうでもいいことなのです。
それ以来今でも、ふたりごとは続いています。一緒に行動しているように話しかけることもあります。意見も求めるし、くだらないことを言って笑いあったりもします。とても細いつながりかもしれませんが(そもそもつながっている確信などないのですが)、心強いものです。気休めでもいい。誰も見ていませんから。

でも作業が一区切りしてしばらく経つ最近は、夫を遠く感じることも増えてきました。私から話しかける数が減ったのかもしれないけれど、そしてそれはけして悪いことではないような気もするけれど、やっぱり寂しい。そのせいか気持ちが落ちた時なんかは、夫に八つ当たりをしてしまいます。
「本当にそばにいるなら、そこのドアをぶちやぶって顔みせてよね!」
無茶を言って、わんわん泣きます。

「でもお前は未来を見てて、俺は過去にいるじゃん。(遠く感じるのは)自然な流れだと思うしかないだろ」
この前はそんなふうに諭されたように思えて、さらに泣いてしまいました。
夫は返事などしておらず、全て私の心の声なのかもしれない。でもそれならそれで、それをふたりごととしてやり取りしている私を、夫はどこかから見守りながら、頑張れ頑張れと応援してくれているでしょう。私が泣くと夫も泣いているように感じるので申し訳なく思うのですが、きれいごとだけで済まないのが夫婦だと、諦めてもらいましょうか。

グリーフ専門士を目指す講座の中で『再会セラピー』という手法を学び、ワークとして受けた時、私はとても馴染み深いものを感じました。
再会セラピーのことを簡単に説明しますと、死別してしまった大切な人(だけに限りませんが)と、自分の身体を通して会話をしていくという手法です。もちろん、信頼できるファシリテーター(カウンセラーなど)を介して行います。それにより自分の深い想いに気づくことができたり、あるいは相手の想いにもまた触れた感触を得られることがあるのです。
再会セラピーは深い部分のやり取りですから、私のやっている気休めと一緒にするつもりはないのですが、そのワークに違和感なく、また恐れもなく飛び込めたのは、ふたりごとのおかげではないかと思っています。

大切な人や身近な人を亡くされた方の中には、私と同じようにその人と会話をしながら、その時々の気持ちと向き合っておられる方もいるかもしれません。大切な人との大切な時間を、それぞれがそれぞれのやり方で過ごしてらっしゃるだろうと想像しています。胸が締め付けられるような、それでいて心強くもあるかもしれないあなたの時間のお話も、いつか聴かせていただければありがたく思います。

なぜ日本グリーフ専門士協会を選んだのか

いよいよこのあたりに触れていきましょう。

「グリーフケア」でインターネット検索をしていただくとわかると思いますが、あらゆる情報が出てきます。支援の場や団体、カウンセリングや専門外来、グリーフケアについて書かれた本やグリーフケアとは何かという説明など。
以前書いたように私は、グリーフケアを自分がやるという前提で検索したので、学ぶための情報が引っかかってきたわけですが、それでもいろいろある。その中から最終的に、日本グリーフ専門士協会を選んだ理由について書いていこうと思います。

① 死別からの日が浅かったこと

死別経験者がグリーフケアを学ぶには、死別からそれ相応の年数が経っていることが条件になっていたり、事前に相談というところが多いです。おそらく、学んでいく中で起こる気持ちの揺らぎを前提にしているのだと思います。志を持って学んでいても、自分の経験がフラッシュバックしてきたり、感情がグラグラになったり(一概に年数が経っていればならないということではないでしょうが)して、継続することが難しくなる場合があるとの配慮からでしょう。

私がグリーフケアを学ぶと決めたのは、夫との死別から数か月後です。年どころか半年にも満たない時期でした。
でもやりたい。学びたい。数年なんて待っていられない。あの時の渇望感は、今でもはっきり覚えています。
当協会の講座申し込みにおいては、死別からどのくらい時間が経っているかに関しての条件はありませんでした。これは協会の井手代表の考えによるものですが、これについてはまた近々、詳しく触れていこうと思っています。

② 学ぶ期間(時間数)

どの学びでもそうでしょうが、似たような資格を目指すものでも学ぶ時間数は様々です。一日で資格が取れるとうたっているところもあるし、長い期間をかけてじっくり学ぶところもあるでしょう。これには個人の好みや考え方、その人が割ける時間の制限などもあるので、それぞれが自分の生活に合ったものを見つけていけるといいですね。

私は何も知らないながらも、グリーフケアという活動が簡単にできるものではないと感じていて、ある程度時間をかけてじっくり学んでいく当協会の進み方に、心強さを感じました。それに自分が不安定な状態にあるということにも気づいていたので、先を急ぎ過ぎてはいけないとも思っていました。

③ 無料でお試しできる(入門講座

自分の状態を冷静に見ればみるほど、急に本講座に飛び込むのは無茶だと思いました。やる気だけでは追いつかない体力や集中力などに不安がありましたし、何より気になっていたのが、心がどれくらい揺さぶられるかということです。泣いてしまったらどうしよう。耐えられないような感情が押し寄せてきたらどうしよう。息苦しくなったら、頭が真っ白になったら、その場にいるのが苦しくなったら。
講座内で泣くことも、感情が揺らぐことも、当然起こりうるという前提のもとに当協会の講座は進んでいきます。でもそうと知ったのはもう少し後のことなので、自分を保てるかどうか、まずは入門講座に参加して見極めようと思っていました。
もちろん自分が学びたいことを学べる場所かどうかや、雰囲気を確認したい気持ちもありました。
このあたりを2時間無料で確認をさせてもらえることは、とてもありがたいことでした。

④ オンラインによるわかちあいの会への扉が開かれていた

私はとても臆病な人間なので、入門講座に申し込もうとほとんど決めていながら、実際飛び込むまでにさらに一か月以上悶々(怪しい団体じゃないかしらとか、いろいろ勧誘されないかとか)としました。悲しいですが経験上、弱っている時は慎重すぎるくらいが丁度いいとも思っています。
協会のホームページなどを何度も訪問し、温かな言葉の裏にある(ないですが)情報を読み取ろうとしたり、またいろんな言葉で検索をかけて疲れ切るということを繰り返していました。頭で考えるだけで動けないでいる自分に嫌気がさし、こんな時いつも相談にのってくれていた夫の不在を痛感しました。

協会がわかちあいの会を開いていることは、ホームページを読んでいたのでもちろん知っていました。家にいながら参加できるのは、コロナ禍でもありましたし、外に出るパワーが沸かない自分には魅力的でした。日程も結構融通が利きそうです。
でも参加してみようとは思っていなかった。何故なら、語れる気がしなかったからです。
様々な死別を経験してきましたが、そういう会は未経験でした。
夫のこと、死別のこと、語ってみたいような気もするけれど語りたくないという複雑な気持ち。語ったからってどうなるものでもないという冷めた感覚。自分が抱えている想いは、誰かとわかちあえるような簡単なものじゃない。なんせ自分が想像しうる辛さの底を、日々更新し続けているような渦巻の中にいるのです。夫が死んでしまったと頭に浮かべるだけでも辛いのに、それを言葉にできるわけがない。
話すことで少しでも荷をおろしたいと考える自分を、薄情者のようにも思いました。自分の辛さを吐き出すことは、夫を自ら引きはがす行為のようにも思えたのです。

でもどこかで、聴いてほしいとも思っている。夫のことを存分に話したい。あの楽しかった生活を誰かに聴いてもらいたい。でも楽しい話なんて場違いかもしれない(参加してみたら杞憂だとわかりました)。そもそも楽しかった頃の生活なんて、何一つ思い出せる状態ではありません。日々浮かんでくるのは、夫の苦しんでいる姿や亡くなった後の顔ばかりなのですから。結局、話すことなんてできないのだと私は思いました。

助けを求めながらも、そして自らそれらを学ぼうとしながらも、その活動を拒絶するような部分も同時に抱えていたことになります。こんなに大変な経験をした人たちが孤独だなんておかしいと憤っていたくせに、グリーフケアの必要性を身をもって感じているくせに、そこに身を浸すことを拒み、早く学びたいと言いながら躊躇している、どこもかしこも矛盾だらけのように見えますね。

どんなに情報が溢れていても、最終的に決断するのは自分です。私はその決断の部分を夫に委ねてきたようなところがあるので、決めること自体に苦手意識を持っています。それでも目の前にわかちあいの会への扉があり、葛藤の末に私は一歩を踏み出し現在に至ります。会に参加しないまま学んでいたら、あるいは会の雰囲気が合わなければ、もしかしたらこれを書いている今は存在しないかもしれない。もしくは矛盾の中でもがきながらも、なんとか進んでいたかもしれない。
いずれにせよ扉がなければ選択もできないわけですから、協会を知る、グリーフケアを体験するためにも、わかちあいの会への扉が開かれていたことは、私にとって大きいことでした。

 

これら理由で私は日本グリーフ専門士協会で学ぶことを選んだわけですが、情報にさえたどり着けば選択肢はあるので、学びたい方それぞれが、自分の状態や条件と照らし合わせて選んでいけるといいですよね。さらにいえば、もっともっとグリーフケアの裾野が広がっていくことこそが、より良いケアや学びにつながるとも思います。当協会もその一端を担っていけるよう、日々前進してまいります。

編集後記

最後まで読んでくださりありがとうございます。はじめてのわかちあいの会体験記はこちらです。また覗いてくださると嬉しいです。

日本グリーフ専門士協会ではわかちあいの会」を無料開催しており、全国どこからでもご参加いただけます。お申込みいただきましたら、ZOOM(オンライン会議システム)の使い方等もメールで案内させていただきますのでご安心ください。

また、グリーフケアを学ぶ第一歩「グリーフケア・ペットロスケア入門講座」も無料で開講しています。支援者として活動したい方はもちろんのこと、グリーフの渦中におられる方にもご参加頂いております。今のご自分の状態を、少し客観視できるようになるかもしれません。私もここから学びをはじめました。