グリーフケアの風景

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グリーフの渦中より

『予期悲嘆』て何? 後編

『予期悲嘆』て何? 後編

こんにちは。新人グリーフ専門士、寿月です。 3月になり、急に春めいてきました。春は、年末年始とはまた違った区切りを感じる季節でもありますね。昨年の今頃は桜が咲くのが怖くて、そして実際咲いたら悲しくて憎らしいような気持ちにもなって、外に出るのが辛かった。今年はどんな気持ちで桜を見るのかな。自分でもわからないけれど、その時感じるものを大切にしながら過ごしていければと思っています。 それでは今日も書き進めて参りましょう。

家族は「第二の患者」という考え方があるそうです

前編では、私の経験をもとにではありますが、予期悲嘆では実際どんなことが起こりうるかをお伝えしました。後編では、そんな家族へのサポートの実情に触れていこうと思います。 大切な人や身近な人がそう遠くなく亡くなってしまうという状況におかれた時、私たちの心もまた目まぐるしく揺れ動きます。大きな衝撃を受け、現実を受け入れられないような気持ちになります。 でも時は止まってくれない。そのことを目の当たりにするような日々。一秒でも長く生きてほしい。これ以上苦しんでほしくない。さまざまに想いが錯綜する中で、いろんな決断や調整を迫られることになるのです。

どこで最期を迎えるか。本当はそんなこと考えたくもないけれど、向き合わざるを得ません。ご本人の希望と現実的な問題との狭間で葛藤される方も多いのではないでしょうか。大切な人の意思を尊重したい。もしくはその意思が確認できないから悩む。 支える手が自分しかないとしたら、仕事は、お金は、時間は、体力は、あらゆることを想定し決めていかなければならないのです。 もし家計を支えていた方が倒れられたとなると、生活自体をどう保つかを考える必要も出てきますね。

私は、夫が余命宣告された瞬間に思ったんです。

「これからは自分の感情が邪魔になるな」

あの瞬間にこんなことを考えていたなんて随分冷静だなあと振り返りますが、自覚があるなしに関わらず、持っていき場のない気持ちに蓋をして自分の中だけで抱えながら、大切な人の最後と向き合う方も多いのではないでしょうか。 手続きもなんやかやとつきまとってきます。何からどう進めていいのか、どこに相談に行けばいいのか。全部手探りで、でも立ち止まっている時間すら残されていないのです。それでも夫は生きようとしていた。一方で私は、逆方向(看取る)に向けても動き出さなければいけない。限界を超えていかねばならないような過酷な状況の中で、自分を保ち、生活も保ち、いつくるか知れない瞬間におびえながら誰かを支えるというのは、本当に大変なことだと思います。

奇跡を願いながらその病気の情報を検索し、救われないようなもの(生存率であるとか)にたどり着いてしまうこともあります。私も先進医療や治験などの情報を求めて、専門用語だらけの論文のようなものにまで必死に目を通した記憶があります。そして、同じ病気で闘病中の方やそのご家族のブログ、SNSなどもいくつも読みました。頑張っている人がいると励みになることもありますが、更新が随分前で止まっていたりすると、その後のことを勝手に想像し胸が苦しくなることもあった。 病院から貰ったパンフレットには、セカンドオピニオンや治療に対する相談窓口とともに、家族会の情報もありました。でも病気が限定(たとえば癌でもその部位を限定)されているところも多く、何より、急激に悪化の一途をたどっているような局面では、自分のために新たな場に問い合わせをして足を運んでというのはなかなか難しいかもしれません。そして家族会自体の数もそう多くないというのが現実です。

家族の支え。現状その多くを担うのは、大切な人や身近な人がかかっている病院や施設の医療従事者や福祉従事者、あるいは訪問看護師や介護士、地域包括支援センターやケアマネージャーなどでしょうか。 私もそれら多くの方々に助けていただきました。 病室のベッドで添い寝してしまった時に私にまで毛布をかけてくれたり、朦朧とした夫のうわ言を一緒に聴いてくれたり。いつでも落ち着いて笑ってみえる私を、強いだの気丈だとの表面的に判断しないでくれた。そして何より、夫の希望を最後まで優先し、その尊厳を守り通してくれた。 時間をとってじっくり話を聴いてくれるわけではなくても、その態度や表情で、夫や私のそばにいること、全力でサポートする気持ちを伝えてくれていたように思います。

一方で、医療従事者からかけられた言葉にとても傷ついて、大切な方を亡くした後のグリーフケアの場で、その怒りをお話しくださる方もおられます。 「先生」と呼ばれていようと人間ですから、いろんな人がいます。そして人間同士ですから相性もありますし、すれ違いや行き違いも当然起こってきます。何気ない一言や表情であっても、平常時ならなんてことなく聞き流せるものであっても、不安や怖さを抱えた中で触れると、全く違うものとして感じてしまうことがあるかもしれません。医師のため息一つ聞いても、その意味を深読みしてしまうほどに敏感になっているのですから。 私もあの頃のどこかで、たとえば「もっと早く病院に来ていれば(早期発見できていれば)」と正論と突きつけられたり、「奥さんはいつも気丈だからこちらも安心しています」などと表面的なことを言われていたら、ちょっと耐えられなかったんじゃないかな。今残る後悔も、もっともっと大きなものになっていたように思います。

反対に、医療従事者の方からも、限られた時間で関わることの難しさ、歯がゆさなどをお聴きしたことがあります。自分が発するものの影響力がわかっているからこそ、言葉選びなどに難しさを感じることもあるでしょうか。 だからこそ、関わる人や場は多ければ多いほうがいいように思うのです。ピアサポート(同じような立場の人によるサポート)や傾聴ボランティアの方などが入っている病院もありますが、現在は感染症のこともあり難しい状況かもしれませんね。 家族としても、治療や方向性についての不安であれば、躊躇なく医師や看護師さんなどに相談できるかもしれませんが、こと自身の心の面となるとなかなか言葉にしづらい。忙しくされているのもわかっていますからね。そうやって一人で抱えるがあまりに、知らず知らずのうちに物の見方や感じ方を歪めてしまうほどに疲れてしまっている可能性もある。

私の場合は早すぎるほどに駆け抜けてしまった時間でしたが、年単位でその状態に置かれているご家族もおられます。ご本人の状況は刻々と変化し、家族の肉体的・精神的負担も増していきます。自分のことは後回しにして、気を張りっぱなしのまま頑張って頑張って頑張り続けて。 優しくしたいのにできない自分を責めたり、緊張の糸が切れて動けなくなってしまったり、自分だけが辛い思いをしていると思えても、けしておかしなことではありません。 家族の一員であるペットがもしそのような状況におかれた場合は、予期悲嘆に加え、安楽死をするかどうかの難しい選択をしなければならない場合もあります。言葉を発することのない動物たちと家族としての自分の気持ち。そんな選択をすること自体大変なことですが、どのような選択をしたとしても、後悔や自責が生まれてしまう可能性がありますね。

私たち日本グリーフ専門士協会は、『哀しみが打ち明けやすい、あたたかい社会を広げる』を理念に活動しています。 死別後のサポートを中心としていますが、そこからさらに広げていく必要を感じています。人生の中での喪失体験は、死別に限ったことではないのです。介護や怪我、離別や失職など含め、協会の井手代表は『人生はグリーフの連続』だと言います。 予期悲嘆もまた、それまでの生活を覆されるような状況から生まれるものです。そしてご本人の治療や痛みの軽減などが優先される中で、家族の心は、自他ともに置き去りにしてしまいがちになる。 でも自身の経験からも、予期悲嘆は後回しにしてよいほど軽いものではないと感じています。その只中におられる方に何ができるのか。当協会としても、そのご状況に同行者として寄り添わせていただく形を模索しながら、進んで参りたいと思います。

そして私たちがおこなっている大切な方、身近な方との死別を対象としたわかちあいの会におきましても、その当時に蓋をし、抱えてきたお気持ちをお話しくださってかまいません。蓋をしていなければ動けないような状況を頑張りぬいて今、ようやくその蓋を開けられる。 会では私もそんな気持ちで、語らせていただいたことがありました。

今現在、予期悲嘆の渦中におられる方がこのブログを読むことはないかもしれません。ですが、その状況にない、またはその状況を超えてきた私たちだからこそ理解を深め、できることがあるような気もしています。この記事が、何かを感じていただけるきっかけになればとても嬉しく思います。 今日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

編集後記

最後まで読んでくださりありがとうございました。何事も一歩踏み出すには、エネルギーを使います。ご無理のない形でのご参加、お待ちしております。

日本グリーフ専門士協会ではわかちあいの会」を無料開催しており、全国どこからでもご参加いただけます。お申込みいただきましたら、ZOOM(オンライン会議システム)の使い方等もメールで案内させていただきますのでご安心ください。

また、グリーフケアを学ぶ第一歩「グリーフケア・ペットロスケア入門講座」も無料で開講しています。支援者として活動したい方はもちろんのこと、グリーフの渦中におられる方にもご参加頂いております。今のご自分の状態を、少し客観視できるようになるかもしれません。私もここから学びをはじめました。