グリーフケアの風景 Landscape
なんで私ばっかり……。
こんにちは。グリーフ専門士、寿月(としつき)です。
猛暑日が続いている地域、多いのではないでしょうか。湿度も高いこの時期は、食べ物が傷みやすい季節でもありますね。死別から間もない方は注意力が散漫になっている可能性があります。身近にそのような方がおられた時、少しそのあたりを気にしながら声をかけていくことも、グリーフケアの一つだと思います。
できることから少しずつやっていけるといいですね。
それでは今日も書き進めていきましょう。
押し込めておくべきもの?
「なんで自分だけがこんなつらい目に合わないといけないんだろう」
こんなふうに感じたことはありませんか?
なんで私ばっかり……。感じながらも口にしづらい言葉の一つかもしれません。そして、答えの見つからない問いでもありますね。
大切な人や身近な人が亡くなる、それはある意味ではとても理不尽な経験のように思えます。仕事や生活、交友関係など多くの場面に影響を及ぼしますし、考え方や感じ方まで一変してしまうような出来事です。
その中で「なんで私ばっかり……」「なんで自分だけが……」と浮かぶのはむしろ当然のことのように思います。
周りの日常は何も変化なく流れているのに自分の時間だけが止まってしまったような、あるいは、何も悪いことをしていないのにただ奪われてしまったように思えたりする。
誰かと比べることもある。もっと大きく、世界全体を恨めしく思ったりもする。
私自身はこの言葉からずっと逃げてきました。心にこの言葉が浮かぶか浮かばないかの段階で、まるで条件反射みたいに押し込める自分がいます。こんなことを思っちゃいけない、世の中にはもっとつらい中にいる人がいるんだから、と。
子供の頃はこの言葉を使うと結構厳しく𠮟られましたし、時代もあるかもしれませんが、そういう人が割に多いかもしれないですね。
大人になればなるほど、どんなに幸せそうに見える人でもそれぞれたくさんのものを抱えながら生きていること、世界でいろんなことが起こっていてることがわかってくる。
そのように人の痛みを想像する力はとても大切なものです。自分よりももっとつらい状況は確かにあって、そこに想いを馳せられるのは素晴らしいことでもあります。その感受性は失ってはいけないものかもしれません。
一方で、それが重々わかりながらも、それでも「なんで私ばっかり」と思わずにいられない、そんな状況になってしまうのが死別というものなのかもしれません。
2020年、父と愛犬と夫、大切な存在が次々と失われた後、私は自分の内側に潜むこの言葉をずっと見ないようにしてきました。誰かと比べても仕方がない、私だけじゃない。
自分を悲劇の主役にしたくなかったし、一度その想いを認めてしまうと、次から次にドロドロしたものが溢れてきそうで怖くもありました。
でも現実世界に目を向けると、一人には広すぎる散らかった家の中にぽつんとしている私がいた。ねえ、と呼びかけても返事はなく、泣いても喚いても一人。ずっと悪夢の中にいるような気がするのに、いつまでたっても覚めてくれない。
外に出ればみんな動いていて、何一つ変わらないように見えて、誰も何事もなかったみたいに笑って話して売って買って歩いて走って運転して。雨が降れば傘をさして、晴れたら洗濯物がベランダに干されている。
意味がわからないんです。自分の哀しみと外界との間に整合性が取れなくなっていた。当たり前が当たり前であることが理解できない。大切な人がいない世界には、私の居場所もないんだなと思ったことがありました。なんとなく存在がおぼつかなくなって慌てて家に帰っても、やっぱり一人だった。
そんなふうに悪夢を漂っている頃、悪気なくかけられた言葉の中に、「人間、誰でもいつか死ぬんだから」というものがあります。
必然だったんだからくよくよしてても仕方がないよ。
早く元気になってね。
亡くなった人の分も頑張って生きなくちゃ。
どうせ限りある人生なんだから、あなたはあなたらしく生きなさい。
言葉をかけてくれた人は、そんなニュアンスのことを伝えてくれようとしていたのでしょう。励ましてくれたのだと思います。当時もその気持ちだけは伝わってきたので、「そうですね」と答えたように記憶しています。
悲しいのはあなただけじゃない。
不幸ばかり見ていたらきりがない。
周囲から、そして私のように自分から、そんな言葉を投げかけられたことはありませんか。
確かに視野を広げれば、私だけがつらいなんてことはあり得ない。
でもだからといって自分のつらさや込み上げてくる想いを、押し込めていればいいのでしょうか。
喪失後の哀しみや痛みは、その方にとって大切なもの。とてもしんどいけれど、亡くなられた人を愛するゆえの特別な想いです。あるいは、自分にとても影響を与えた人だったからこその、苦しい想いです。
人それぞれ違う、一つだけの、あなただけのもの。
「なんで私ばっかり」という気持ちもまた、そのつらさの中から生まれる大事にされるべき想いだと今の私は感じます。
母に似た後ろ姿、父と同じ匂い、手をつないで歩くカップル、スーパーで喧嘩する夫婦らしき人達。あの人たちは生きていて、私の大切な人たちはすでにいない。自分だけが失った人たちの面影を追い求め、直視できないながらも羨んだり妬んだりする状況におかれている。
どうして? なんで?
ドロドロしたものをみつめていくのは勇気がいることですね。苦しいです。そしてどれだけ問うても、やっぱり答えはどこにもみつからない。
大切な人や身近な人との死別は、ただその人が亡くなったということだけではなく、思い描いていた未来が奪われるような事態でもあります。それは自分が自分として生きていくことを見失うような経験ともいえます。何年たっても、どの場面にもその人がいない。それを感じ続ける時間を過ごしていくことになります。果てしなさに圧倒されるし、途方に暮れてしまいます。
誰も「なんで私ばっかり」なんて思いたくない。思いたくないけれど、思わざるを得ないほどのつらさに身を浸している。
わかちあいの会などで、勇気を持ってこの言葉を口にされる方と出会うことがあります。「こんなことを言うと軽蔑されるかもしれませんが……」と前置きしてお話しくださる方もいます。そんなふうに感じてしまう自分に嫌悪感を持っている方もいる。
私はそんなお声に触れると、心が震えます。その言葉を口にするまでの長い長い時間を想像しますと、どれだけ頑張ってこられたのだろうかとその力に震えます。そして今、どれだけの苦しみの中におられるのか、その痛みを感じて震えます。
わかちあいの会、そしてカウンセリングは、身近な人にこそ言えないことを吐き出していただく場でもあります。そういう場であり続けられるよう、ご自身のお気持ちを何より大事にしていただく時間になるよう、私たちも努めてまいります。
ここでなら話せる。そんなふうに思える場所で、内側にため込んだものを少しずつ外に表出していく。
いつか、どんな自分も大切にしていいんだと心から思える日がくるといいですね。
このブログにたどり着いてくださった方々にも、私にも。
編集後記
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。
繰り返し学んでいると、その都度感じるもの、響く言葉が違うことに気づきます。私自身、この春からは自分の内側を見つめていく時間が増えていて、死別からの揺らぎ、それ以外のグリーフの揺らぎ、いろんなものに翻弄される時間も多くなっています。立ち止まっては振り返る。膝を抱えてうずくまる。そしてまた立ち上がる。毎日こんなことを繰り返しています。目に見えて好転的変化があるわけではないけれど、こうやって一日一日過ごしていくしかできないし、そうすることがまた、今の自分には必要なんだと感じています。
オンラインによる「わかちあいの会」(無料)・個人カウンセリングの日程確認とお申し込みはIERUBAへ。
また、グリーフケアを学ぶ第一歩「グリーフケア/ペットロスケア入門講座」も無料で開講しています。支援者として活動したい方はもちろんのこと、グリーフの渦中におられる方にもご参加頂いております。今のご自分の状態を、少し客観視できるようになるかもしれません。私もここから学びはじめました。