グリーフケアの風景

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グリーフの渦中より グリーフケアの基礎知識

あきらめること、受け入れること

あきらめること、受け入れること

こんにちは。グリーフ専門士、寿月です。
今年から観葉植物と共に暮らしています。名前もつけちゃって、愛でています。ネットで調べながら試行錯誤するのも穏やかな時間。気にかける存在が近くにいることの幸せを感じながら、今日も書き進めてまいりましょう。

諦め

協会が大切にしている概念の一つに、グリーフスパイラルというものがあります。大切な人や身近な人を失くした後には様々な状態(局面)が起こる可能性があるというもの。
混乱、否認、怒りや罪悪感、抑うつ、諦め、転換、再生。
状態は、必ずしもこの順番通りに進むのではなく、蜂が巣箱の中を飛び回るように時期や日によって、もっと言えば一日の中でも様々に変化していきます。行ったり来たりを繰り返す。そしてどの状態にあったとしても、真ん中(感情)には哀しみが存在するという概念です。
今回は局面のうちの1つ「諦め」について触れていきたいと思います。

諦め。あきらめ。あきらめると聞いて、皆さんはどんな印象を持たれますか?
もしかしたら、あまり良いイメージを持たない方もいらっしゃるかもしれませんが、死別後の局面としては、必ずしもネガティブな状態ではありません。大切な人や身近な人の死が不可逆だということを現実として受け入れつつある状態、大きな変化の兆しと考えます。

私がこのグリーフスパイラルという概念を最初に学んだのは、夫との死別から半年経つか経たないかの頃でした。
毎朝、起きるたびに夫がいないという現実を突き付けられて、もがき苦しんでいた時期です。一人の家、一人の朝に驚いて、嘘だと否定したくなる。信じられないし信じたくもないし、でも夫の生きた痕跡を消すような手続きを進めている、そのちぐはぐな感じに混乱もしていました。
夫が亡くなったという事実を自分の口であちこちに伝えながら、墓苑のパンフレットを取り寄せながら、夫の帰りを待っている。夫がいないことを認められないし、認めたくないんです。絶対に戻ってくるはずだと思っている。何かの冗談に違いないと信じている。
だからこの「諦め」という局面があると学んだ時、私は、そうなれたらどんなに楽だろうと思う反面、その局面にたどり着くことに抵抗を感じていました。
諦めるということは、夫の死を認めて、受け入れつつあるということ、当時の私にとっては遠い先の話、想像もしたくないし、できないことでした。

受け入れるとは?

大切な人や身近な人が亡くなった後、その現実を受け入れるには多かれ少なかれ時間がかかります。1年経たずして受け入れられたと感じる人もいれば、5年、10年経っても、とてもそんな気持ちになれないという人もいるかもしれません。
あの子が亡くなってしまったこと、あの人がもう帰ってこないということ、お葬式や火葬を執り行ったとしても、すぐに納得できる人は少ないのではないでしょうか。
むしろ直後は何が起きたのかもわからないような混乱の中にいて、時間の経過とともに受け入れたくない気持ちが込み上げてくる場合もありますね。

毎日ご飯を作ってくれていた人、何かが壊れたら直してくれた人、家族を笑顔にしてくれた人、応援してくれた人、危険から守ってくれた人、誰よりも味方でいてくれた人、無邪気に笑ってくれた人、成長を楽しみに過ごした時間、一緒に買い物に行ったこと、喧嘩して罵り合ったこと、励まし労わりあったこと、共に泣き、笑った時間。
なんでもない当たり前の毎日。

変わらざるを得ない日々、失ってしまったものの大きさに直面しながら傷つき、胸をえぐられるような痛みを感じる。

もう二度と戻れない。一緒の未来も築けない。共に時間が紡げない。

わかっているんです。でも認めたくない、受け入れられないです。
あの日に戻りたい。時間を巻き戻したい。信じたくない。戻ってくるはず。どんなに願っても叶えられない。でも願わずにはいられない。悔しくて、悲しくて、痛くて、怒りも湧いてくる。どうして、なんで? どんな想いが込み上げてきても、自然なことのように思います。
でも毎日は、なんていうか残酷に、誰にとっても平等に過ぎていきます。大切な人や身近な人がいない時間を、私たちは重ねていく。
その人が担ってくれていたものを、遺された者が分担して、あるいは自分一人で担ってい必要がでてくるかもしれない。埋められない穴に気づきながら、他にやる人がいないから、あなたがいないから、自分がするしかない。
あるいは、あの子のために、あの人のために作ってきたご飯。食べてくれる人がいなくなってしまって、作る意味を見失うというように、それまでの役割から強制的に引き離されたように感じてしまうこともあるかもしれません。
そんなふうに毎日何かしらの変化をつきつけられて、やるせない気持ちになりながら、心の痛みでうずくまりながら、それでもなんとか、なんとか過ごしていく。

周囲から「すっかり元気になったね」とか、「安心した」などと言われても違和感を感じることがありますね。だってその奥には大切な人の死を受け入れられていない自分がいる。時間がどれだけ経ったとか、どれだけ元通りに見えたとしても、それは、なんとかやり過ごしている過程かもしれません。

そもそも受け入れるってどういうことなんでしょう。どうなったら「受け入れられた」ということなのか。

正直言うと、私にもまだわかりません。夫にもう二度と会えないということ、両親ともう二度と話ができないということ、受け入れられているかと問われたら、わらかない。
「ただいま」って帰ってくる日を待っているし、2年半近く経った今もどこか期待しています。でも待っていても「ただいま」が聞けないこともやっぱりわかっている。それがたまらなく切ないんです。
ただ、この数か月で1つ大きな変化を感じた瞬間がありました。
「あ、私、これからは自分で自分を幸せにしていくんだ」
ある時ふと実感したんです。
決定的なきっかけがあったわけではなく、ただ、その少し前に気持ちがものすごく落ちた数日があって、夜明け前の一番暗い時間のようなその数日があったからこその変化なのかもしれません。
「一人で生きていかなければいけない」とか「自分で自分を幸せにするしかないんだ」とか、これまで何度も何度も自分に言い聞かせてきたようなものではなく、どこか客観的な感じで、新しい知識を理解できた瞬間みたいに、「そういうことなんだ」とストンと落ちた。
その時、これが私の中での「諦め」という局面なのかもしれないと思いました。
そして、これまでも小さな諦めを重ねてきたのではないかと思い至ったのです。

夫の服を処分した時
切れた電球を交換した時
引っ越し
毎日、自分のためだけに食事を準備すること

グリーフスパイラルのどの局面もそうですが、諦めもある日奇跡のように舞い降りてくるものではなくて、苦しみを感じながらもこういう小さいことを一つずつ重ねていきながら、変化を受け入れる準備を少しずつ進めていく、じわじわと実感していく過程なのかもしれません。

死別から時が過ぎていく中で、いつまで経っても受け入れられない自分を責めてしまう方もいるでしょうか。他の人はみんな回復しているように見えて、自分だけがそうなれなていないことに焦りを感じたり。
あるいは、思っていたよりも早く大切な人がいない世界に適応できている自分が、なんだか冷たく思えることもあるかもしれない。

私たち日本グリーフ専門士協会は、

受け入れられない葛藤も
受け入れたことの苦しさも

そのお気持ちのままに同行させていただきたいと思っています。
無理に受け入れる必要もないし、過度に自分を責める必要もないのではないでしょうか。
「受け入れる」も「諦め」も、時間で測れるものではありません。
誰かに促されたり判断されたり、求められるものでもなく、また、そこを絶対に目指さなければいけないというものでもないような気がします。
私もたくさんのつながりに支えられ、行きつ戻りつしながらその過程を歩んでいます。
受け入れたとか諦めたとか立ち直ったとか、あまり言葉にとらわれず、しんどいけれど焦らず、今日を踏ん張るあなたのありのままのお気持ちを、私たちも大切に。

編集後記

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。
花粉の季節がやってまいりました。毎年この時期のはじめに「治ったかも!」とか「今年は軽いかも!」と勘違いするのは私だけでしょうか。全然そんなことありませんでした。今年も順調に鼻と目を取り外して洗いたくなっています。

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そして、グリーフケアを学ぶ第一歩「グリーフケア/ペットロスケア入門講座」も無料で開講しています。支援者として活動したい方はもちろんのこと、グリーフの渦中におられる方にもご参加いただいております。。今のご自分の状態を客観視できるヒントがあるかもしれません。私もここから学び始めました。